厩戸豊聰耳聖徳法王
『日本書紀』(養老4年・720年):敏達天皇の妃推古天皇についての記事に「豐御食炊屋尊為皇后是生二男五女其一曰菟道貝鮹皇女更名菟道磯津貝皇女也是嫁於東宮聖」と見えるが、「聖徳太子」という名称は記されていない。顕真の著『聖徳太子伝私記』に引用される「法起寺塔露盤銘」(慶雲3年・706年という)に「上宮太子聖徳皇」と見える。他にも厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳、上宮王、『上宮聖徳法王帝説』での厩戸豊聰耳聖徳法王、上宮聖徳法王、万葉集巻三の上宮聖徳皇子など、様々な名前で呼ばれる。平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載され、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期にはすでに「聖徳太子」の名が広く用いられていたことが伺える。一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし「生前で用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更。
update:2009年08月23日
